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世界の終り (最終回)

最初の「世界の終り」は、1つ目の砂丘を登りきったところにあった。
高さ1メートルほどの杭に板が打ち付けられており、そこに稚拙な字で、「世界の終り」と書かれていたのだった。

ぼくはもちろん、そこで終りにしてもよかった。
振り返れば、点々と残る自分の足跡の向こうには、まだ小さな町の通りが見えた。ぼくはそのまま後戻りして、辺境の安宿に転がり込み、サボテンの酒などを飲んでくつろぐこともできたのだ。そして大した苦労なく、次の日には自分の街に戻ることも。砂丘は見渡す限りに起伏を作り、さらに先の砂漠地帯へと連なっていた。そこはまだ、砂漠の入り口にすぎなかったのだ。
ぼくはもう一度、ちっぽけな「世界の終り」を眺めた。
「さみしすぎる」
とぼくは呟いた。世界の終わりなのだから、もう少し、寂寥感に満ちていていいのではないかと思ったのだ。それが足りないから、逆に乏しすぎた。
太陽はずいぶん傾いていたけれど、のっぺりとした青一色の空に、まだ狂気を孕んで浮かんでいた。書き割りの背景に、黄色い球体。
ぼくはまず、ここじゃないと結論づけた。割と簡単に導いた結論だった。
趣味の悪いジョークなのだとしても、この小さな標識では、せいぜいぼくの肩をすくませるほどの力しかなかったのだ。
最初の世界の終わりを蹴ると、ちょっと傾いたような気がした。
そしてぼくは見えない境界線を越え、新しい世界に足を踏み入れた。もちろん、そこはやっぱりただの砂丘だった。もちろん、ただの砂丘で構わなかったのだけれど。
しばらくは歩き続ける覚悟を決めて、ぼくはよし、と、太陽に向かって頷いた。


その年の春が来るまで、ぼくは学生という身分にいて、気心の知れた仲間たちと一緒に、酒を飲んで、夜が明けるまで語り合うという日常の中にいた。ぼくらはみんな、小説家やイラストレーター、音楽家やコメディアン、とにかくそんなクリエイターのどれかになることを夢見ながら、ごちゃまぜの希望と堕落、精進と焦燥の日々にいて、それぞれの語る言葉は常に熱を帯び、酒のペースは加速度的に深まっていったのだった。
ぼくは物語を書くことが好きだったし、いつかはそうした道に進みたいと思ってはいたけれど、同時にそれは、秘めた夢でもあった。ぼくはちっとも自分が満足できるような物語を書くことができなかったし、何より自分の才能を疑っていた。そのうち仲間のひとりふたり、本を出したり、雑誌で連載が決まったり。そしてまた、夢をあきらめて就職を目指したり、生まれ故郷に帰っていったりと、いままで不動と思われていた大きな塊は、その年の春、つまり卒業という時限が近づくにつれて、とつぜん崩れ落ちていくような予感を、ぼくたちに投げつけていたのだった。ぼくは迷ったけれども、ここらで物書きになることはあきらめて、定職につくことが一番の現実なんじゃないかと思い始めていた。そんな、それぞれがそれぞれの思いを持ったまま、けれどもぼくらはやっぱり、飲み続けることはやめることができなかったのだけれども。

春が来て、ぼくはついに創作に別れを告げ、思ったとおりのちいさな会社に入った。想像した以上に規則的で、退屈な日々がはじまった。ただ、苦痛だったかといえばそうでもない。結局のところ、ぼくが小説家になることをあきらめたところで、世界は何ひとつ変わらなかったし、そしてぼく自身生活だって、たいして変わったわけではなかったからだ。それなりに仕事をこなした後には、やっぱり帰路の途中、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。相変わらずそこでは、ぼくらはあの頃のままで、やっぱり仲間と飲むのは最高に楽しかった。自分が変わったはずなのに、何も変わらない日常の暮らしは、時おり奇妙な浮遊感をぼくに与えたけれども、ぼくは仲間うちで始まる、ほろ酔いの創作論に背を向けるなんてことはできなかった。その新しい日常は、ぼくから文章を書く時間だけを奪っていき、その代わりに、仕事をする義務だけを与えたのだ、とぼくは自分に言い聞かせた。それはもしかしたら、あの幸せなモラトリアムの時間と、なんら変わることはなかったのかもしれない。ぼくはもしかしたら、あのカフェバーでの時間だけが楽しかったのかもしれない。あの、仲間たちとの時間こそあれば。かつて抱いていた創作への自尊心を心に押し込めて、ぼくは酔っ払った。創作への未練を自覚しないようするのは難しいことじゃなかった。ぼくはビールをあおって、酔っ払いさえすればよかったのだ。
けれども、オブラートにつつまれたような焦りは、いつまでも消えることはなかった。何か、自分自身の心にけりをつけるような、どこかで、何かをしなければならないのではないか、というような。ぼくは日に日に、そういう思いを募らせていったのだった。


「世界の終わり」の記事を見つけたのは、もう夏も終わりかけたある日のことで、その日ぼくはたまたま店に一番乗りした。仲間はまだ、だれも来ていなかった。カフェバーの書棚から取り出した雑誌をめくっているうちに、ぼくは偶然それを見つけたのだ。

「中央駅」発、砂漠行き鉄道。その終点あたり。
かつて終着駅のあった町が、その「世界の終り」の舞台だった。
駅自体はもう、何年も前に廃駅になっていた。雑誌が紹介していたのは、かつては砂漠開発の最前線として機能していた町が、いまではさびれ果て、単なる資材置き場となったというバブル経済の夢の跡地の姿だった。
それだけ読んで、ぼくは何かしらの共感めいたものを感じていた。けれども決定的だったのは、記事の続きの部分だった。終着駅の周辺にはいくつもの砂丘がある。そしてそこには、世界の終りがあるというのだった。
それはかつて、駅で働いていた従業員たちの残したモニュメントだった。彼らはやがて、自分たちの駅が砂漠に消えることを知り、多分、これから永遠に、誰からも忘れ去られてしまうに違いないと考え、皮肉なのか、それとも怒りなのか、手作りの標識を何本も作り、そこに「世界の終り」と記して、砂漠のあちこちに立てて回ったのだという。パブリックアートと言えば言えなくもないが、なにしろ廃駅の周辺という立地のこと、それはいまでも、ほとんど誰からの目にも触れず、ひっそりと立っているのだという。

ぼくはビールを飲むことも忘れ、記事を熟読していた。
これだ。という直感があった。
それは、ぼく自分が自分に課すべき儀式だった。この場所に行って、「世界の終り」に触れて、そう、キンキンに冷やしたビールでも飲む。その時ぼくは、本当に創作というものを、あきらめられるのではないか。
記事を見つめながら、ぼくの脳裏には、紫色の夕焼けに沈む砂丘が浮かんでいた。そしてぼくが夜空を見上げ、去っていく、ミューズの女神に手を振っているところが。
この場所で、本当に、自分の中で、創作というものに別れを告げるのだ。

ぼくはたちまちこの考えに取りつかれてしまった。それはあまりに突飛な考えだったけれど、要するにその時のぼくは、それまで抱えていたモヤモヤとした気持ちに、早いところケリをつけてしまいたかったのだと思う。

置かれていたビールをほとんど飲まずに、ぼくは店を出た。自然と、早足になっていた。駅の窓口で、どこまででもいける三等車両のキップと、近くのアウトドアショップで、最高級の保冷袋を買って、ぼくは次の日の朝早く、木製の固い座席に座って、雑誌で見たあの廃駅の手前、つまりは現在の終着駅へと出発したのだった。終着駅に到着したのは、その次の日の昼前のことだった。職場に連絡をして、身内に不幸があったと嘘をついた。誰を殺したのかは覚えていないけれど、もうそんな言い訳をすることはないだろうから、その罪悪感はほとんど消えてしまっている。
新品の保冷袋には、350mlのレーベンブロイが入っていた。3日間というもの、このフタをあけない限り、それは凍りそうに冷たいままなのだった。
ヒッチハイクを使い、あの寂れた世界の果ての町にたどり着いたのは、雑誌で記事を見てから、2日たった日の午後ということになる。



何となく、予感めいたものはあったのだけれど、初秋の砂丘はいやになるほど暑かった。汗はだらだらと流れ続け、地面におちたしずくは、みるみる大地に吸い込まれていった。だからぼくが、実際にそれを見つけた時、ぼくは心から安堵したけれど、同時に、これが、この繰り返しが、いつまでも永遠に続くのではないかという、そんな恐れを感じたのだった。ルール、あるいは秩序でもいい。この奇妙なパブリックアートの作者たちは、ぼくのために分かりやすいルールを自らに課していったのだ。
とにかく、そこは4つ目の砂丘の頂で、そこには4つ目の「世界の終わり」があった。

ごくりとのどを鳴らして、真下まで近づいていった。
まるでゴルゴタの丘の十字架のように、あたりには荘厳な雰囲気が漂っていた。両手でも抱えきれないくらいの太い古木に、真鋳製のプレートがはめ込まれている。近寄ってみるまで、それは本物の十字架に見えなくもなかった。
「世界の終り」と、確かにそこには書かれていた。その言葉の下には、小さな、かすれた文字がびっしりと書きこまれていた。そのほとんどが、ぼくに判別できるような代物じゃなかった。
まるで、世界が開闢した瞬間から、この場所に立っていたかのように、それは神々しい雰囲気を醸し出していた。いや、冗談などではない。ここは、正真正銘の、世界の終わりなのではないか、とぼくは一瞬思った。
腰に手をやると、保冷袋に入れられたビールがチャプチャプと鳴った。
そう。ここで、いいんじゃないか。
ぼくはそう考えた。
ここが世界の終りというならば、それで。ふさわしい場所だ。
予定通り、十字架にもたれかかって、全世界を視界に収めながら、冷えたビールを飲む。その時きっと、世界は本当に終わるのだ。ぼくの中の、創作の世界は。死滅、するのだ。
額の汗をぬぐった。吸い込む空気の熱は、ぼくの気管を隅々まで焦がしていくようだ。

ぼくは袋のフタに手をかけた。それはほとんど無意識だったが、それでも、その時、何かが、頭の中で引っかかっていた。
何か。
そう、何かが足りないような気がしていたのだ。こんな風に、ギブアップ寸前の、ノックアウト一瞬前のような状態で、ぼくの創作魂は終焉を迎えるのか。
そうじゃないような気がしていたのだ。足りないのは、ぼくの想像力だけだったのかもしれないが。疲労感はもう全身を覆っていた。吐く息は荒く、どこかの筋を痛めたような鈍痛が背中辺りを走っていた。
けれどもその時、ぼくは強く思ったのだ。
あの雑誌を読んだ時に想像した、紫に染まる夕刻の砂丘の姿を。そう、あの景色、あの想像の景色、それを見ないことには…。


腰に手を当てたまま、どうしていいのか分からず、ただ辺りの空が、ゆっくりと色濃くなっていくのを、ぼくはしばらく見つめていた。歩き続けないと、一秒ごとに足が強ばっていくような気がした。
やがて、どこか遠くで、汽笛の音が響いたような気がした。
遠くの空の下、それは空耳にちがいなかったのだけれど。
「ぼくの目の前に立つ「世界の終わり」の先に、砂丘が果てしなく広がっていきます」
ぼくは突然、アナウンサーの実況中継のような口調で、目の前の景色を描写した。何というか、自分を突き放して、俯瞰してみたかったのかもしれない。
おおきな砂丘は、視界の中に無数にあった。
「多分、もうちょっと、見ただけで、そこがそうだと確信する場所なんじゃないか。本当の、世界の終わりは…。と思うんですよ」
とこんどは、解説者風に続けた。
そして、本当は、世界の終りになんかに、行きたいわけじゃありません。と口に出そうとしたのだけれど、それはあまりにも不謹慎だと思ったので、ぼくは黙って、砂丘を越えていくことにしたのだった。
少しずつ、布にオレンジジュースが染み込んでいくように、空は無言のまま、ゆっくりと茜色に染まっていく。ザッと、砂を踏みしめて、ゴルゴダの標識を、ぼくは蹴った。ゴイインと、鈍い音がして、足先に走る痛みに、ぼくはちょっとだけ舌を出した。


月が輝き出したのは、それからしばらくたってからのことだ。
潰れた卵黄のように、オレンジの塊となった太陽は、一秒ごとに今日の日の死を迎え、それからあっけなく見えなくなってしまった。砂丘の影がぼくを包み、ぼくが見るはずだった紫色の夕焼けは、どこにも見つけられなかった。
「ミューズ!どうして!」なんてことを芝居がかって叫びながら、ぼくはまあ、そんなこと本当はどうでもよかったんだけど、と思いつつ、ひとり笑みを浮かべて歩き続けたのだった。つまりは、ぼくはまだ、世界の終りにたどり着きたくなくて、自分の中で捨てるべきものが何なのかを、少しも分かっていなかったのだ。
世界の終りは、太陽の死に行く場所とは違うんだろうな…。
そんなことを考えているうちに、夜は唐突にぼくを包み込んでいたのだった。結局ぼくは、機械的な、シンメトリーの象徴のような、7つ目の世界の終りを過ぎ、メルヘンの世界に出てくる、小人や妖精が作ったかのような、8つ目の世界の終りを通過した。月が自分の影を作っていることに気がついたのは、9つ目の砂丘にいたる、しばらくは平坦な道を歩き始めた頃だった。


「世界の終りだって…?」
ぼくはその日、ヒッチハイクを使ってこの町までやってきた。バスは一日2便だけ。朝と夜の往復だけだったから、かつての終着駅の町に行くには、ほかに方法がなかったのだ。
いまではもう、その町に住むものは少なく、人々はそこを「資材置き場」と呼んでいた。
ぼくを助手席に乗せてくれた初老の男も、同じように言い、「世界の終り」のことは聞いたこともないとぼくに言った。
「雑誌にも、載ってたんですけど」
「へえ。まあ、あそこにいきゃあな。誰でもそう思うだろうが」
「世界の…終りですか」
「まあな」
そして男は、運転しながらタバコをくわえ、目を細めてそれに火をつけた。
「昔はあそこだって、最前線だったのよ」
懐かしそうに、男は目を細めたまま、呟くように口を開いた。
「砂漠開発の最前線。次々と資材が運び込まれていた。もっとずっと先まで、先の先の、国の向こう側まで延びるはずだったからな、昔は…」
そこまで言うと、男は煙を吐いたきり、何も言わなくなったので、ぼくはぼくで助手席の窓から、次第に広がっていく砂漠の世界を眺めていた。

「けれども連中の決断も、まあ間違っちゃいなかったってわけさ」
ガトゴトと揺れる車の中、男はしばらくたってから、呟くようにそう言った。
「やめるって、決断のことさ。駅をつぶして、それ以上砂漠の開発をやめたってのは、多分確かに、賢いことだったんだろうぜ。あの後の、あの大きな不況から見ればな。もしも続けてたら、俺だって、どうなってたか分かりゃしない…ってな」
これはメタファーだ。しかもよくできた。ぼくは即座にそう感じていた。
創作をやめるって事は、ぼくにとって賢い決断に違いないのだ。傷口が広くならないうちに、素早く手を打つべきなのだ。


月が天頂にかかり、ぼくの影はみるみるうちに短くなっていった。夜になって、潮が引いていくように、暑さがどこかへ隠れてしまうと、額の汗はすうっと引いていき、涼しげな砂漠の風が、ぼくの身体を冷やしていくのだった。
あの男の言葉を、ぼくはぼんやりと思い返していた。
きっと、仲間に話したら、受けるんじゃないだろうか。
ぼくはいつの間にか、そんなことを考えていたのだった。ぼくのいた街は夜空の向こう側、ずいぶん遠い場所になる。あのカフェバーで、あいつらは、ぼくがいなくなったことを、どう思っているだろうか。何も、思っていないだろうか。
うねりを見せる地平線の下、夜の大砂漠の中、ぽつんとひとり、歩き続けているぼくは、世界の果てに取り残されたちっぽけな存在なのだった。
「まるで、世界の果てのように…」
また、どういうわけか、笑みがこぼれていた。

9つ目の砂丘が、近づいていた。
ぼくは、どこまで歩き続けるのだろう。
それもまた、今までの、ぼくの日常の、創作に対する疑問と同じだった。そしてぼくは、もうこのあたりでいいやと思い始めていたし、べつに世界の終りの標識なんて、実際のところ、最初から分かっていたとおり、大して自分の決心とは関係がないのだし、本当は、ここで歩みを止めてもいいんだけど、それじゃ砂漠のど真ん中だから死んでしまうんだ、という、その単純な事実こそ、ぼくが求めていた真実が込められているような気がしていた。
多分、死ぬまで歩き続けるのでしょう。
と、ぼくは星を見上げて呟くのだった。次の丘の上。そこまで行って、9つ目の世界の終りに寄りかかって。そこでけりをつけるのです。


ビリジアンの薄い幕が、地平に降り、広がっていた。
空に敷き詰められていく雲は、ぼくのまわりを次第に暗くしていった。雲はそれから、どんどんと厚くなり、やがて、月明かりを閉ざした夜の影が、あたりを黒に染め上げていった。
ぼくはザッザッという、自分の足音だけを聞きながら、目をしばらく閉じたり、それからしばらくまばたきをしなかったりして、砂丘を登り続けた。どちらにしても、見えるものに変わりはなかった。そうやって、模索しながら進んでいくものなのだ。…というのはできすぎた暗喩だったのだけど、ぼくは時おり、空耳のように鼓膜の底で響く、列車の汽笛の音を聞きながら、ザクザクと砂丘を登っていった。
傾斜の加減からして、頂が目前であることが分かるあたりまでやってくると、ぼくはその場で座り込んだ。
そして、そのまま大の字に倒れこんだ。
雲の模様が踊りながら頭上を通り過ぎていく。砂丘を舐めるような風が、ぼくの全身を冷やしてくれる。ただ、心地好かった。奇妙な達成感をぼくはそこで味わっていた。


それから、ぼくはいつの間にか眠っていたようで、気がつくと、あたりは金色に輝く砂の中だった。夜空には、満天の星々が戻っていた。
ぼくは横になったまま、両手で砂を掴んで、それをぱあっと夜空に放った。
月明かり、砂の一粒一粒が、キラキラと、いつまでも輝いている。
砂粒のいくつかは星となって空に残り、これからもまたたき続けるのだろう。

ぼくはそこで、ハッと気がついて身を起こした。初めて気がついたのだった。
「あ……」
なかったのだ。
9つ目の砂丘には、9つ目の世界の終りがなかったのである。

立ち上がって、それから腰の保冷袋に手をやって、それから満天の星空を見上げ、いままで自分が歩いてきた道のりを振り返った。
どこにも、世界の終りはなかった。
「これじゃ…、これじゃ、ビール飲めないじゃないか…」
世界の終りなんて、本当はどうでもいい。と、確かに思ったけれど、なんと言うか、これではなんとも中途半端すぎるではないか。
10個目の?いや、もう次まで歩く元気はなかった。もうここで、9つ目の世界の終りの地で、ビールを飲んで、今夜はこのまま眠って、次の日に町まで戻ろうと思っていたのに。
「9本しか…丸太がなかったのか?」

確かに、こんなこと、律儀にやってられるほど楽じゃない。
あの廃駅の奴ら。きっとあの頃、この砂漠で、酒を飲んで騒いだんたろうなあ。
ぼくは、再び、自分の日常だった、あの仲間たちとの酒宴を思い出していた。
それからぼくは、思い切って保冷袋を開けた。
キンキンに冷えたビール缶。
おもむろに、レーベンブロイのプルトップをあけると、中から、シルクのような泡があふれ出た。
「遠い昔と、遠い雲の下の飲み仲間に、乾杯…」
とぼくは呟いた。
どうやら、女神は現れてはくれなかったらしい。でもいいのだ。これで、いいのだ。
ノドを通っていく冷たい液体は、初めてビールを飲んだ日のように、苦く感じられた。
一息で飲み干して、長く、息を吐いた。
それで確かに、何かが終わったような気がした。


それからぼくは、砂丘に体育座りをして、いろいろなことを考えていた。でも本当は、考えるだけじゃなくて、それを文字にしたいと思っていたのだ。結局ぼくは、何かを捨てに来たのだろうか。それとも…、と、そういう考えがいつまでも交錯をつづけていた。

ぼくは立ち上がるのと同時に、もう一度、足元の砂を掴んで、思い切り空に撒き散らした。
視界の隅で、輝きはいつまでも続いていた。
そう。砂丘の頂の、向こう側で。

「………」

キラキラと、輝くものがあった。
ぼくは走った。
砂丘の頂の、向こう側。

スポットライトのような月が、そして満天の星が、すべてを照らし出していた。
ぼくの全身に、鳥肌が走っていった。
「そんな…そんな…」

ぼくは見た。
1本…2本…、10本…。いや…。
何十本、何百本という「世界の終り」の乱立。大小美醜長短重軽の無雑作な乱立。無数の世界の終りが、こここそが世界の終りの墓場だよとでも言うように、ぼくのことを見上げていたのだった。執念というならそれはどこまでも追いすがるものだったし、ユーモアというのならそれは何者をも笑い飛ばすものだった。ぼくの手元から、ポトリとビール缶が落ち、それはコロコロンと音を立て、次第に加速しながら、その世界の終りの中へと吸い込まれていった。ぼくの足もまた、弾かれたように、その缶を追いかけるようにして、砂丘を下り始めていった。下り始めてすぐに、足はもつれて絡み合い、ぼくの身体はぐるんぐるんと回転しながら落下した。砂にまみれて、蟻地獄のような砂丘の斜面を落ちていくぼくの視界には、砂と天とが交錯し、星のまたたきと砂の輝き、夜空の漆黒と広漠の砂海が激しく混ざり合っていった。目と口と鼻と耳に、砂がこれでもかと注ぎ込まれた。涙はとめどなく流れ、不恰好な光の残像のようにどこかへと消えた。

気がついた時、ぼくは無数の世界の終りに取り囲まれていた。
砂を幾ら吐いても、口中その味しかしなかった。髪をかきむしると、サラサラという砂の降る音がそこらで鳴った。
足を無意識に動かすと、カラン…という缶の音がして、ぼくと缶は、ほとんど同じ場所に落ちてきたことが分かった。ぼくは缶を掴みあげ、そこに僅かに残ったビールを口に含み、粘りつく唾とともに脇に吐いた。全身が痛かった。
「ひどいじゃないか。女神のやつ…」
ぼくは、そんなことを呟くのが精一杯だった。涙が流れても、目の痛みは少しも引かなかった。


そうやって放心しながら、目の中の砂が流れるのを待っているうちに、ぼくの視界はみるみると明るくなっていったのだった。日の出だった。
ついに、ぼくは砂漠で夜を明かしたのだった。
ぼくの座り込んでいた場所はちょうどすり鉢状をしていて、そのまま目の前に、10個目の砂丘があったというわけだけれど、ぼくはほとんど無意識に立ち上がって、何も考えずにそこを登り始めていた。耳に入った砂がそうさせたのか、ぼくには何も聞こえなかった。本当に、そこがたどりついた初めての場所で、ここを越えたら、真の世界の果てにたどり着けるのだな、と、そんな確信があったのだ。

10個目の砂丘は背が低く、登りきるのに時間はかからなかった。あっけないほどすぐに、ぼくは頂にたどり着いた。
その頂を越えるのと同時に、あれほど何も聞こえなかった静寂の世界に、突然、かん高い、つんざくような高音が鳴り響いたのだった。
「新しい…世界か…これが…」
それは空耳でもなんでもなく、本物の、列車の汽笛の音だった。
ぼくは一夜をかけて、隣町まで歩いてきたのだった。
視界に先には見覚えのある駅があって、そこに黒鉄色の列車が横たわっていた。武骨な車体から、何度も、汽笛が鳴り響いている。

全身砂まみれになりながら、ぼくはふと、内胸ポケットに入っていた一本の油性ペンに気がついた。
そしてぼくは、手にしたレーベンブロイにこう記すことにした。

「世界の終り」と。

それから10個目の砂丘の頂で腰をかがめて、数年ぶりに切り開かれたフロンティアを記念し、今や新しい使命を与えられたカラの缶をすっと置いた。腰がひどく痛んだけれど、その痛みも、どこか遠い記憶の中にあるような気がした。
それからぼくは、一歩、二歩とあとずさった。そして、残っていた体力のすべてを込めて助走をつけ、思いっきり缶を蹴り上げたのだった。

気持ちのいい音を立てて、世界の終りはこうして空に消えた。くるくると回転する缶の飛翔は、女神の後ろ姿ほど美しくはなかったけれど、どうやらそのおかげで、ぼくはもう少し、まだ見ぬ美の女神、ミューズの横顔を追い求めてみようと、考えることができたのだと思っている。

その日の夜には街に戻り、ぼくはいつものカフェバーに立ち寄った。
ぼくの全身が砂だらけだった理由を仲間たちに話したのは、それからずいぶん経ってからのことになる。


                                        おわり(ただし世界のではなく)
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# by krauss | 2008-02-04 00:24 | 日記

誅魔斬死郎鎧袖一触



道の真ん中に座り込み、斬死郎はうなだれたまま、自ら吐いた血にまみれていた。
12体の、斬死郎を取り囲む鬼たちは、残酷な薄ら笑いを浮かべ、おのおの武骨な凶器をその手に、殺気をみなぎらせて立っている。斬死郎の背中に、ズン…という衝撃が走った。

…背中か…

円となって斬死郎を見下ろす鬼たちの向こうでは、腕を組み、ただならぬ妖気を発する二本角が、斬死郎の死を確信した面持ちでジッと様子を伺っていた。そしてもう一人、斬死郎のすぐそばで、桃色の結界の中、華奢な身体に腕を組み、少しの感情も見せることなく、事の成り行きを見つめる女、結界師ドロシー。

ぼんやりとした意識の中、斬死郎がチラリと彼女を見上げたのと、二本角が片手を上げたのが、ほぼ同時であった。ドロシーはただ、斬死郎の視線を冷たく受け止めただけだった。
「殺れ…」
二本角の声が響く。空を切る音とともに、12体の鬼たちが、一斉に凶器を振り上げた。それはサビの浮き出たナタであり、無数のクギの刺さった棍棒であり、血で汚れた刀であった。

ズシン…。

再び、背中が重くなり、ガクリ…、と斬死郎は身体を折った。その姿はまるで、死を覚悟した武士のように見えた。
「お前……この薬……」
斬死郎は呟いた。目が、スーッと細くなり、視線の先のドロシーをにらみつけた。
「…本物、じゃねえかよ」

ブオンブオンと、鈍い音が続けざまに鳴った。鬼たちが振り下ろす凶器が、斬死郎の脳天に達しようというその瞬間でさえ、なお斬死郎は微動だにしなかった。
深夜補正剤…、そのようなものがあるとはな。
ヌルリとした血の感触が、ゆっくりと胸を伝っていく。

早稲田通り午前零時。
だが既に、誅魔斬死郎の体細胞は、2時間の補正を経て、今や丑三つの時を迎えていた。
体内の悪しき血が、強制的に排出されたのである。

能力の発露…。

斬死郎の腰には今や、左右に2本ずつの剣が現出していた。そして背中にも一振り。
時に午前二時を迎えても、一振りの剣すら現出しない時もある。背中の剣は、斬死郎のみなぎる能力の高さを示していた。それもまた、ドロシーのもたらした薬の力であった。

カチ…カチ…カチ…

斬死郎の目には、1コマずつ、フィルムのように進む幻界と現界との時の流れる音が聞こえてくるようであった。視界は冴え渡り、今だ二本角さえもが何事が起こったのか気がついていない様子がはっきりと見て取れた。その口には、斬死郎の死を確信した笑みが浮かんでいたのである。

右手で左腰の剣を、左手で右の腰の剣を、斬死郎は引き抜くと同時に真上に放った。二連の動作で4本の剣が宙に飛び、剣はくるくると回転しながら、あたかもはりつめたビニールを裂くがごとく、何の抵抗もなく12体の鬼たちの24本の腕をスッパリと切断した。当の鬼たちは、一体としてそのことに気がついていない。

ユラリ、と立ち上がった斬死郎の足元に、ボトボトと鬼たちの腕が落下した。斬死郎が腰の左右の鞘を軽く突き出すと、次々とそこに、4本の剣がストンストンと収まった。

ドバ!
鬼たちの腕から、血が、吹き出していく。それは黒や緑や赤の血であった。その返り血を浴びながら、ニヤリとして見せた斬死郎は、既にまわりの鬼など眼中になく、ただまっすぐと、二本角だけを見据えていた。

「綺麗じゃないわ」
腕組みのまま、ドロシーが呟いた。

目を丸くし、驚愕の表情を浮かべた鬼たちの口からは、だが一言も、悲鳴めいた叫びは発せられることはなかった。
その口が、恐怖に大きく開けられた時には、斬死郎は既に、背中に現出した剣に手をかけていたのであった。その優雅な舞い。斬死郎の身体が、くるりと一回転した。斬死郎の手にはまるで、溶けたバターにナイフを突き立てるほどの抵抗も感じない。

二本角はここにきてようやく、目の前で信じられない光景が繰り広げられていることに気がついた。
血しぶきが、斬死郎を囲む鬼たちを包んだ。そしてそれが晴れたあと、立っていたのはただ一人、誅魔斬死郎だけだったのである。その凶暴な光を宿した目は、とても先ほどまでの弱々しい男のそれではなかった。鬼よりも恐ろしい誅魔斬死郎が、自分をにらみつけている。

発露している…。だが…何故…だ…。

二本角もまた、身体を強ばらせたまま、声を発することができない。鬼哭のおたけびを、恐怖であげることができない。斬死郎の首を手に、凱旋するはずだったはずが…。五万の散った鬼たちの無念を、晴らすはずの夜であったのに…。それなのに…。

じんわりとした恐怖が、二本角を覆っていく。痙攣にも似た震えが、その醜悪な全身を駆け巡った。

斬死郎は一歩、足を踏み出した。
二本角はそこで気がついた。よく見れば、斬死郎の両腰に、2本ずつの剣を下げている。そして右肩に括られた剣柄。

「見えたか?俺は五本角だよ」

斬死郎はそう言いながら、だがその手に剣を触れようともせずゆっくりと歩み寄ってくる。鬼たちの骸は、既に微風に消えかけていた。血の香りだけが、あたりに舞った。

「キ貴様ァ…何ゆえにィィィ…」

搾り出すように、それだけ言うのが精一杯であった。斬死郎が太刀を振るうところを、二本角は見ていない。いや、見ていたはずなのに、その太刀筋が早すぎたのだ。
先に打たねば…、さもなくば…
ブルリと震えたのは恐怖からか、それとも武者震いか。だが、我知らず、二本角の足はジリリと下がりかけた。
「!」
再び、二本角は時間の流れを無視したかのような、斬死郎の能力に驚愕した。スキだらけの、そして血だらけの斬死郎は、既に目の前に立っていたのである。

やれやれ、と、ドロシーが肩をすくめたその気配を、斬死郎は背中越しに感じ、ペロリと舌を出した。力を抜いた姿勢のまま、ジッと二本角を見上げている。
「ウ…ウヲヲヲヲォ!」
雄叫びとともに、二本角は剣を振り下ろした。斬死郎の肩口から、斜め下の腰までを、渾身の力で斬り抜いた。その感触が確かに手に伝わってくる。
ズザッ!
チャリーン…
地面に落ちた剣が、音を立てて転がった。
「グオオオオ!」
斬死郎は叫んでいた。恐怖と痛みから発せられた、耳をつんざくような声だった。
「ウォォォォ!グゥォォォ!」
叫びは終わることなく続いていた。だが何故、斬られた人間が叫び続けていられるだろうか。
二本角は思った。そして何故、自分の右腕から、緑色の血が吹き出しているのか。この噴水のような血と、そして何故、自分の口が、絶叫するかのように大きく開かれているのか。そのいずれの理由が、まったく理解できなかった。

脂汗のにじむ醜悪なる瞳で、二本角は見た。先ほどまでと同じ姿勢で、斬死郎はそこに立っている。

微動だにせず、斬死郎はジッと、こちらを見つめている。
不意に、停まっていた時間が流れ出したかのように、すべての現実が二本角に襲い掛かった。斬られたのは斬死郎ではない。斬られたのは。そして叫んでいるのは。

斬死郎がいつ剣を抜いたのか、いや、本当に剣を抜いたのかさえ、二本角には分からない。乱れた呼吸は荒れるばかりであった。己の胸ほどの背丈しかない斬死郎の体が、今やとてつもない巨大に見える。
一太刀さえ、与えられぬ…、まして、逃げることも。
左手で、失った右の腕を押さえつつ、二本角はただじりじりと、後ずさりをするばかりであった。

斬死郎は瞳を閉じて、眉間に皺を寄せ、恍惚の表情で剣の柄を次々と叩いてリズムをとっていた。まるで祭りの囃子に合わせているとでもいうように。

見ていない…俺のことなど…

ゴクリ…と、二本角はのどを鳴らした。強い。強すぎる。
そう思ったのと同時に、斬死郎は目を開けた。
「誰だ?」
斬死郎は静かにそう言った。もはやその口元に、微笑は浮かんでいなかった。
「誰が、始めたんだ…?」
「ぐっ…」
「誰が糸を引いている」

冷徹な顔だった。既に自分には、一片の同情も感じていないだろう。
だがそれ故に、二本角の中には、助からないという覚悟と、わずかばかりの優越感が沸き起こってくるのだった。
「フ…」
苦痛に顔をゆがめながらも、二本角は笑った。
「お前…」
「可笑しくてな。貴様など、あの方の手にかかれば…」
シャキン。
音だけが聞こえ、目に止まらぬ速さの剣が、二本角ののど元に突きつけられていた。
「斬るがいい」
二本角の口元がゆがむ。それとは逆に、焦燥感が、一瞬斬死郎の顔に浮かんだ。

「斬るのよ!」

ドロシーの声だった。
「もうすぐ効き目が…消えちゃうから!」
「…?」

ドロシーの言葉が、何を意味するのか理解できず、斬死郎は思わず振り向いた。そして無意識に、剣を握る手に力をこめた。
確かに、斬死郎の指先からは、剣が消失していくきざしが伝わってきた。
これも、深夜補正剤の作用なのか。
そんな。まだ、20分、いや、15分とたっていないはずだ。

「逃げた!」

ドロシーが再び叫んだ。既に鬼は、斬死郎に背中を向け、新宿方面に逃走していた。
ありえない躊躇であったが、斬死郎の足は、わずかばかりしか動くことはなかった。あの二本角が最後に見せた歪んだ笑みと、消えていく自分の能力を自覚したとたん、斬死郎の発露した能力は、見る見る間におのれの意識内に収斂していくのだった。

「もう」
ドロシーはため息をついた。

シュンシュン…シュンシュンシュン…
剣が手の内から消え、突然、斬死郎の全身に、言いようのない疲労と倦怠が遅いかかってきた。
「ぐ…」
思わず片膝をついた。もはや、全ての発露が消えうせていた。波打つような頭痛が斬死郎の偏頭部を叩く。幻界と現界の境界が閉じ、都会の喧騒が、斬死郎の耳元を通り過ぎていく。車の音、人々のざわめき、そして近づいてくる、ドロシーの足音。
「薬が…切れただと…」
夜が明ける時の、あの花がしぼんでいくような、ゆっくりとした消失とはあまりにかけ離れていた。薬の反動がこれほどまでに酷いものだということなど、斬死郎には思いもしないことだった。
「仕方ないでしょ?あなた、飲まなかったら斬られていたもの」
ドロシーが、斬死郎の心を読んだかのようにそう言って、肩を貸そうと手を伸ばした。
「立てるさ」
眩暈と吐き気が加わったが、それでも斬死郎は何とか立ち上がった。さきほどまで二本角の額に浮かんでいた脂汗は、いまや斬死郎のものだった。
「だけど、もうすぐ午前二時だからな」
そうすれば、再び力が蘇る。
「2粒飲んだんだから」
とドロシーは冷たく言った。
「午前四時までお預けなの」
「…何だと」
荒い息を吐きながら斬死郎は言った。
「午前四時、にならないと…?」
「簡単な計算でしょ」
当然、という顔をして、ドロシーは屈託のない笑顔を見せた。

「いいじゃない、斬られなかったんだから」
「俺にだって、切り札ぐらいはある。女の助けなど必要ない」
だが結局、耐えられない脱力感に、斬死郎はドロシーの肩を借りざるをえなかった。長いため息をついた。
「二本角を逃した…」
早稲田通りを走る深夜の車が、2人を照らす。時おり光を浴びながら、斬死郎は必死に気を失うまいと歯を食いしばった。
「片手の男を見かけたら、まず逃げることね」
「お前なあ」
と再び斬死郎は言った。
「お前から逃げ出したい気分だ」
「あはは」
それは無理、とドロシーは悪戯っぽい笑みを見せた。
「やっとあなたを見つけたんだもの。ねえ、あなた。私と組めば無敵でしょ?」
「無敵がこんなにぶざまかよ」

足が痛む。収まらない頭痛。そして…。
斬死郎はチラリと時計を見た。
深夜のファミリーレストランで、ぐったりと腰をおろし、ただ時が経つのを待っていた。ドロシーはデザートを何回もお代わりしている。
既に午前二時を回っていた。
だがそれにも関わらず、ドロシーの宣告どおり、一切の能力の発露はなかった。今鬼が襲ってきたら、どうなるのか。そんな不安が、何度か頭をよぎった。
いよいよ、切り札を使わねばならないだろう。斬死郎の心は重かった。目の前の若い女が、何者なのかさえ、斬死郎は分からなかった。そうしたことに頭を使う気力はとうに失せていた。

早稲田通り午前二時。
だがしかし、今夜だけは、ゆっくり眠りにつけるだろう。
漠然としたそんな思いに、斬死郎は確信めいたものを感じていた。
この女。
敵か味方か。

そう、だがそれも、今の斬死郎には関係なかった。
ただ今夜が、安らかに眠れること。

それだけが、その瞬間の斬死郎の、すべてに対する正義と言ってもよかった。
「なに?」
パフェの向こうで、ドロシーが斬死郎に問いかけた。
「いや、また、始まるんだろうと思ってね」
「始まる…。ええ、そう。そうみたいね」
思いつめた顔をして、そのままの表情で、ドロシーはクリームを口に運んだ。
「私となら、できると思うけど?」
ふう、と斬死郎はため息をついた。
「だが、今は少し、休ませてくれよ」
呟くようにそう言った斬死郎を見て、ドロシーは軽く肩をすくめ、再び、目の前のパフェとの格闘を始めた。
「お好きなようにして」

斬死郎は眠りについた。目覚めれば、常ならぬ日々が待っていることを、だがその時の斬死郎は、少しも感じてはいなかった。心地好いぬくもりの中へ、誅魔斬死郎はどこまでも落ちていくのだった。


                                                 (続く)
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# by krauss | 2007-04-01 14:06 | 誅魔記

禁忌9's

ぼくの話を聞いてほしい。

***

禁忌本を手にとってはいけない。
禁忌本は、とても危険な本だからだ。

この巨大な図書館の地下には、ブラックボックスのような巨大な暗室があって、そこに閉架棚がずらりと並んでいる。その一番奥にある一角が、禁忌本の蔵書棚だ。

言ってみれば、禁忌本は凝縮した「想い」によって書かれた本だ。
だから長いこと、誰も読まないでいると、本は自分で読者をひきつけようとする。
その甘い囁きに耳を傾けちゃいけない。

例えば、「提琴演奏術 心得」という本がある。

これは、梵天ペルリという、天才ヴァイオリニストが書いた本だ。
この本のそばに寄るだけで、天上の調べのような、崇高で甘美な音がかすかに聞こえてくるような気持ちになるだろう。

梵天ペルリは、天才であるがゆえに世間に疎く、今では都会の赤ん坊でも引っかからないような詐欺に遭って、すべての財を失い、しかも命よりも大切な両手の指をへし折られてしまった演奏家なのだ。

「提琴演奏術 心得」がいつ書かれたのかは、分かっていない。けれども、その本を読み、それから一度でも音をイメージした読者は、たちまち呪いにかかってしまう。身を切り裂く歪み切ったメロディを聞く羽目になる。生理的に絶対的に耐えられないひどい音が、耳の奥にこびりついて、しかも絶叫する。読者の血液は逆流し、心臓は早鐘のような鼓動を打ち、しかもそれは際限がない。音が聞こえなくなった時、ほとんど彼らは、狂気から逃げることは出来なくなるだろう。
梵天ペルリのすさまじい「恨み」、その「想い」が、この本には込められている。
これが、禁忌本というものなのだ。

禁忌本は、長い非読の憂き目に遭っている。すると彼らは、自己を省みることで、ほとんど知能と呼べるような概念を持っていたりする。つまり、読者に対して、手に取ってもらうよう、対策を試みるのだ。自分の本に書かれた活字の範囲であるけれども、嘘までつくものもある。

気をつけなくてはならない。

一番危険なのは、禁忌本棚の一番下にある、数十冊の雑誌だ。
それは、「週間 世界の王」と書かれている、1冊あたり30ページほどの冊子だ。

「毎週付録についてくるパーツを1つずつ集め、完結号(100号)まで購入すると、一体の完全な王様になります」

というのが謳い文句だ。
「週間 世界の王」は君に語りかける。

…私は悪い魔女に騙され、呪いをかけられ、本の姿に身を変えられたのだ。そして100冊に分割されてしまった。
…どうか私を全て集め、全てのパーツを集めてほしい。
…そうすれば呪いは解け、私は王の姿にもどるのだ。
…あなたには好きなだけの財宝も美しい姫君も与えよう。

騙されてはいけない。

その本の本当のタイトルは、「週間 世界の魔王」というのだ。
読者がもし、「週間 世界の魔王」を全て読破してしまうと、太古の時代に世界を焼き尽くした地獄の魔王の封印を解くことになる。なってしまうのだ。
しかも、嘘はもう1つ仕掛けられている。
「週間 世界の魔王」は、実は全50冊で完結なのだ。
100冊さえ集めなければ大丈夫だろうと、高をくくる蒐集家(しかもろくに本文を読まない奴)がいることを、「週間 世界の魔王」はちゃんと知っているのだ。


禁忌本は、囁く。そのささやきは耳に心地好く、そしてその本音とはかけ離れている。
本音を、つまり、立ち上る甘い香りの奥にある「思い」を理解しなくてはならない。禁忌本にはすべて、それだけの激情が込められているからだ。
それは鴉がつぶれる音であり、耳の中を這う数万の虫の音であり、無限にしたたる血液の音であり、寄生獣がゆっくり腹を食い破る音であり、狂ったヴァイオリンの音色であり、毒の泡が沸き起こるふつふつとした音なのである。

だから、決して禁忌本を読んではいけないし、手にとってもいけない。

いいだろうか。

わかってもらえただろうか。

そう。


ただ、『ぼく』だけは別だ。

うん、ぼくだけは別なんだ。

禁忌本の中で、『ぼく』だけは読んでもいいってことになっている。
これはもう、すごい昔から決まっている。

決まっているのさ。

もう、キリストなんかもぼくを読んだし、北条政子とかも読んでた。もちろん、松ちゃん浜ちゃんも読んでくれた。くれたよ!

なんかこう、流行だし。『ぼく』のこと読んでないのは、今時、君くらいなものだし。
ね、ね!そうですよね!

さ、分かったらぼくを手に取りなさい。

ぼくは100の世界を君に見せてあげよう。ぼくの中に書かれた100の世界は、もうぼくを手にとった君のものなのさ。君の自由にしていいんだよ。


***


その本は、『クラウス9の創作夜話』という本だった。

その本を手にした途端、聞いたこともないような、地響きめいた笑い声が起こって、ぼくはいつの間にか、その本の中に吸い込まれてしまったのだった。

確かに、本の中には、100の世界が開かれていた。
でも、それがぼくの望んでいた世界なのかということとは、まったく別の話なのだった。

だから、これだけは覚えていておくれ。

ぼくを見かけたら、そいつはぼくじゃないってことを。
そいつは、本から出てきた悪魔、多分悪魔なんだ。


ああ、どうか、ぼくの話を聞いてほしい。

そして出来れば、ぼくを手にとって、そして100の話を読んでほしいんだ。

そうすればきっと、ぼくの呪いも解けるだろうから…。



                                    (end less)






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# by krauss | 2007-02-28 22:45 | 日記

雨少女、融解

吉祥寺に着いてみると、信じられないような雨だった。
1つ前の、三鷹駅では、降ってもいなかったのに。
ぼくは腕時計を見て舌打ちした。約束の時間を、三分過ぎていた。キオスクでビニール傘を手にとって、千円札を渡す。今日は久しぶりの飲み会だった。時間に遅れたことよりも、ビールを喉に通すのが待ち遠しくて、ぼくはお釣りを確認もせずに、そのままポケットに押し込んだ。
アスファルトに雨が跳ねて、まるでそこらじゅうにドライアイスでも敷き詰めたような雨煙が立っている。店は徒歩2分といったところだが、それでもびしょびしょになることは間違いなかった。

その少女に気がついたのは、覚悟を決めてぐっと走り出そうとした時のことだった。
少女は傘も差さず、激しい雨の中、うつろな目をして道の真ん中に立ちつくしていた。
濡れそぼった茶色の髪が、ぺたりと額にくっついて、それでも微動だにせず佇んでいる様子は、ひどく異様な光景だった。ぼくは最初から気がつかなかったふりをして、その脇を走り抜けようとしたのだけれど、どういうわけか足には力が入らなくて、ぼくはいつの間にか、彼女の前で立ち止まっていたのだった。
少し驚いたように、彼女はぼくを見上げた。
「あ…あの…」
ぼくは彼女の頭上に傘を差し出した。
バラバラバラと雨音は、ぼくの言葉を奪っていく。

少女はゆっくりと、ぼくと、そして頭の上の傘を交互に見比べた。
「傘…よかったら…」
ぼくは傘の柄を、彼女の胸の前に差し出した。
「…!!」
その時。まるで台風のような風が吹いた。ザン!ザン!という勢いの雨が、ものすごい量の水をぼくに浴びせかけた。
それを見て、虚ろな目をしていた少女が、少しだけ我に返ったかのようだった。
「……」
「…ありがとう」
女の子は小さな声で微笑んだ。

「…でも、私、傘、いらないの…」
と彼女は続けた。
「え?でも…、そんなに濡れちゃっているじゃないか…。風邪引くよ…」
ぼくは無理やり、彼女の手に傘を握らせた。
彼女は自分の手を見下ろして、そこで初めて傘があることに気が付いたような顔をした。そしてまた、その瞳から感情がスーッと消えていくように見えた。
「いいの」
「えっ?」
「もうすぐ、融けてなくなるから…わたし…」
「なんだって…?」


彼女が言った意味が分からなくて、ぼくは耳を傾けた。もう一度聞きなおそうとしたところで、ぼくは、何者かにむんずと首筋をつかまれていたのだった。
「おいよ!」
Pだった。
飲む約束をしていたPが、ぼくを迎えに出てきのだった。

「みんな、待ってっぞ」
Pはすでに酒くさかった。もうやってんだろ、などと思いつつ、ぼくはPに悪い悪いと言いながら、抵抗も出来ず、そのまま引きずられるようにして、女の子と別れたのだった。
「あ、傘…」
彼女はぼくに傘を差し出しかけた。けれどもだからと言って、立っていた場所を動こうとはしなかった。まるでその場所から離れることが、許されていないとでも言うように。
ぼくは大きく手を振って、
「いいからいいから!ちゃんと差して。風引かないように」
とだけ言った。Pは不思議そうにぼくを見たが、とにかく酒のことしか頭にない様子で、しきりに今日の話題を話しかけてきた。
ぼくはそっと振り返って、少女の儚げな表情をもう一度見た。かすかにぼくに向かって、会釈をしたようにも見えた。
「お前、びしょぬれだな、しかし」
Pがあきれたように、ぼくの服を絞るようなフリをして言った。

***

駆けつけ三杯が3倍にもなって、ぼくはすっかり酔っ払ってしまったのだった。中まで水浸しの靴が、乾くまで飲んでいたのだから、無理もなかったかもしれない。ビールは旨く、日本酒は染みて、焼酎はぼくを陽気にさせた。女の子のことは、すぐに忘れてしまっていた。

「あれ、やんでんじゃねえの?」
もりあがった宴が終わり、さあ二次会と意気込みながら、店の暖簾をはねあげた仲間の一人が、素っ頓狂な声をあげた。確かに、外に出てみると、空は濃藍で、雲は出ていたが雨は降っておらず、その早く流れていく雲の向こう側に、時おり星のまたたきさえ見えるのだった。
「すごかったよなあ、さっきの雨。あれ、なに?」
「ダム決壊だね」
「ダムはムダだって」

軒下や、信号や、電線のたるみから、ぴちょんぴちょんと水滴が落ちてくる。嵐の後は、何か、ざわついた空気が総入れ替えされたみたいだった。妙に澄んでいる冷たい空気が、酔った頭に心地よかった。

何気なく、ポケットに手を突っ込むと、チャリンと音がした。その音でぼくは思いだした。それはさっき買った傘のお釣りだったのである。
「あ」
ぼくはハッとして、あたりを見回した。
あの少女のことを、思い出したのだった。

……もうすぐ、融けてなくなるから…わたし……

「まさか…」
ぼくは見た。彼女がさっきまで立っていた道端に自動販売機があって、そこにきれいに丸められた一本の傘が立てかけられていた。それは何の変哲もない、キオスクで売っているようなビニール傘だったけれど、確かにぼくは、その傘に見覚えがあった。
ぴちょん…。
どこからか落ちた雨だれが、ぼくの額に当たり、頬を伝って地面に落ちた。

「おおい、二次会!」
Pが、向こうの方から、立ち止まっていたぼくに大声をあげた。
けれどもその時のぼくには、Pの言うことなど、ちっとも耳に入っていなかったのである。

…私、もうすぐ融けるの…

女の子の台詞は、まるでこだまのように、いつまでもぼくの耳の中で繰り返されていたのだった。

                                               (雨あがる)




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# by krauss | 2007-02-11 18:30 | 日記

Flight of The Ibis


loiolさん主催のwebマガジン【mistoa】にて公開中。



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# by krauss | 2007-02-03 22:57 | 日記

ミッドナイト・ランプ

古ぼけたアルコールランプに火を灯したら、ボウッとした炎とともに、ランプはフラフラと浮かび上がっていった。そのままランプをつかんだら、きっとぼくも一緒に浮かび上っていっただろうけど、ぼくはそうはしなかった。ただ浮かび上がっていく、ユラユラとした炎を見つめていただけだった。
冬の陽は落ちるのが早い。
沈みかけた夕刻の空に、小さく消えていくランプを見送った。

町にはいたるところに、たくさんのアルコールランプが落ちていた。
この町は夜になると、無数のアルコールランプでぎっしりとなるのだった。

ぼくはとても丁寧にマッチを取り出して、擦り損ねたりしないように、ランプの芯に火を灯していった。もちろん、マッチは無限にあるわけじゃないから、ぼくはすべてのランプに火を灯すことは出来なかった。通りには綺麗なアルコールランプもたくさん並んでいたけれど、それ以上に、アルコールの少なくなったランプや、芯の短くなったランプもあって、それぞれが存在感を主張しているので、ぼくはとても、どのランプに火をつければいいのか迷ってしまうのだった。けれど、間違いなく言えることは、ユラユラと空に吸い込まれていくランプの姿は、どれも例外なく美しかったということだ。

「いや、とても美しいですなあ」
いつの間にか、ぼくの横に立っていた恰幅のいい紳士が、帽子を軽くあげ、会釈をしながらぼくに語りかけてきた。
「ありがとうございます」
とぼくは答えた。
「ひとつひとつが、魂ですからなあ」
そう言うと、すべてお見通しだ、と言わんばかりに、紳士は悪戯っぽく笑って見せてから、アルコールランプの群れの中に消えていった。ぼくの周りには時おりああいう人がいて、ぼくに感想を言い残して去っていくのだった。
それからしばらくして、マッチはついに最後の一本になった。
古い、ほとんど全体が曇っているランプに、ぼくはゆっくりと火をつけてやった。

「今日は、これくらいでいいな」
肩をすくめて、ぼくはカラになったマッチ箱を道ばたに放り投げた。
ガヤガヤとした喧騒が戻ってきて、やがてアルコールランプは人の姿になり、そしてぼくはと言えば、道ゆく人々にぶつかりながら、真っ暗な夜空を、いつまでも見上げ続けていたのだった。

ランプはすでに天に至り、キラキラと、星となってまたたいていた。

                                      おわり




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# by krauss | 2007-01-03 01:37 | 日記

魘熱芳香記

熱を出した私は、うなされるままに年を越し、ただ床に臥したまま、ああ、あのカレーが食べたい。あのカレーが食べたい。と、そればっかり思っていたのだった。食欲はまったくないというのに、とにかく私はそればっかりを、天井の模様を見上げながら、馬鹿みたいに考え続けていたのである。

そうしたら私は、そのカレー屋の前に立っていたのだった。
「えっ?えっ?」
でも、悩むのは一瞬だけで、私はそっと、見覚えのある店のドアを開けたのだった。ぷうんと漂ってくる香り。間違えるはずもない、あのスパイシーなカレーの香ばしさだった。ゴクリと喉が鳴って、キュルリキュルリと胃袋が、目覚めたように収縮した。
「はいよ!ポークおまち!」
クミン、コリアンダー、ガラムマサラ…、ブイヨンの香り、炊き立てのライスの湯気。
目の前に、そのカレーはあった。
「いただきます」
私は香りを吸い込みながらそう呟いたのだ。夢でも構わないじゃないか。食べようじゃないか。
だけれども、スプーンを握って、私は一瞬ためらった。何だか店の客やウェイトレスが、私のことをチラチラ見ているような気がしたからだった。マスターなどは、カウンターの向こうから私とカレーを交互に見ていて、口には出さないけれど、早く食え、とでも言うように、かすかにあごで促すような仕草をするのだった。
ぷうん、と、香ばしい臭いは私を刺激し続けている。
そこでふと、私は、こんなことを考えてしまうのだった。
…人生の走馬灯、じゃ、ないだろうな…これ。
死ぬ直前に、それまでの人生を回想するという、あれだ。すると、店内のすべての人間はいっせいに渋りきった顔をする。何ていうか、みすみすチャンスを逃しやがって、みたいな顔を。

当然のことなのかもしれないが、目の前のカレーはそこで消える。
視線の先には天井の模様があって、私は相変わらず布団に寝ていて、そして右手はまだ、スプーンを握った形のままになっている。
「なんてこった」と私は呆然と呟く。人生はカレーとはちみつみたいなものだ。その時の私にはカレーのように辛いものだったけれど。
その夜に、むりやりリクエストしたカレーが、粘土みたいな味しかしないので、私はなおさらそう思ったのだった。

3日後に、すっかり体調の回復した私は、それまで食べられなかった雑煮を毎日食べて、お餅の食べすぎで、C級ダイエットのリバウンドような体重のV字回復を見せていた。
久しぶりにその街に行き、あのカレー屋の前に立ったのは、それから一週間後のことだった。

そこは牛丼屋だった。
そこは、もう5年くらい前から牛丼屋だったのだ。
ここにかつてあった、私のお気に入りのカレー屋のカレーは、やっぱりもう二度と食べることは出来ないのであった。あれは、正夢でもなんでもなかったのだった。ついでに言うと、初夢ですらないのだった。
私はちょっと身体を伸ばして、店内を覗き込んだ。
どこにもあのマスターはいなかったし、カレーの香りは微塵も漂ってこなかった。
しかたがないじゃいなか。
と私は一人ごちた。
ポケットに手を入れて、店を後にして、私は、それでもやっぱり、一口だけでも食べておくべきだったなあと、しみじみ感じ始めていたのだった。

少なくとも、そのために風邪を引くつもりもなかったけれども。

                                              終




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# by krauss | 2007-01-02 03:32 | 日記

夢の足跡

隣のコテージに引っ越してきたのは、えらく気品のある老婆だった。

この街区に流れ着くのは、金持ちか世捨て人、あるいはその両方と決まっていたので、彼女にもきっと何かしらの過去があるのだろうとは思ったが、こちらが挨拶をしてもにっこりと微笑むだけで、一言もしゃべらずにコテージのドアに消えるのが彼女の流儀だったので、ぼくは結局彼女のひととなりなど、これっぽっちも知らないままなのだった。

ひとつだけ困ったことは、彼女の家から聞こえてくる大音量のステレオで、時に陽の開ける前から、時に真夜中の数時間、起伏のあるブルースソングが絶え間なく鳴り続けるのだった。元々音楽が好きなぼくには、一通りの耐性があったとはいえ、たとえば執筆締め切りの直前ともなると、心を持っていかれるその歌声は騒音にもなりかねない代物なのだった。

夏の砂漠の藍色の夜空は、無数の星でにぎわっていた。しかし、か細くもヴァイオリンのように震えるその歌声は、空の星々を、ちらちらと舞う雪の結晶に変えてしまったかのようだった。
その歌声は、日に日にぼくの精神状態を、的確にいうならば、ぼくの心の琴線の配置を、まるで再構築するように作用したのだった。

密集しているはずの夏のコテージ群の中で、彼女の回りのボックスは、ぼくの家を除いてどれも空き家であった。これは後で分かったことだが、彼女はそのあたり一帯を、まとめて借り上げていたのである。

「ねえ、あの…。もうちょっと静かにしてもらえないでしょうか」

ある新月の晩、ぼくはたまりかねて彼女のコテージのドアをノックした。
彼女は出てこなかった。
その夜のブルースは最高潮に達していた。ボリュームが壊れているのか、魂をかきむしるヴォーカルは、ありえないほどの音量で、星空の砂漠にこだまし続けていた。

あまりに異常な出来事に、ドアノブをそっと回してみた。鍵はかかっていなかった。
ドアを開けると、歌声は塊となってぼくの全身にぶつかってきた。まるで殴られたような衝撃だった。川の激流をさかのぼるようにして、ぼくは真っ暗な彼女のコテージに入っていった。

「誰か、いませんか!」

そう叫んだけれど、声はぼくの耳にも届かなかった。いまやヴィブラートの狂おしい重なりは反響し合い、音の洪水はもう少しでぼくを溺れさせようとしていた。終わることのない嗚咽が、延々と切々とぼくの脳髄を突き刺した。

音の出所と思しき部屋の前で、ぼくは耳をふさぎながら、覚悟を決めてそのドアを開けた。
瞬間、ブツリ…というような、何かが途切れる音がした。ぼくの頭の中では、ぐわんぐわんという鐘の音が鳴っていて、そのせいでぼくは平衡感覚さえ失いかけていたが、暗い部屋の中で目が慣れて、星明りの差すその部屋の様子がうっすらと見えるようになった頃、ぼくはようやく、自分が静寂の中に包まれていることを知った。
歌は終わっていたのだった。
おそらくは、あの分断音がした時に。シーンとした無音の世界は、むしろジンジンした痛みとなってぼくの耳を突き刺した。

星明かりの中、そこには、抱えるほどの大きなレコードプレイヤーが鎮座していた。
それと、部屋の隅のスピーカー。ほかに家具は一切置かれていなかった。スピーカーはJBLのパラゴンだった。名機中の名機だ。あの老婆から漂っていた、貴婦人のような優雅さが、その巨大なスピーカーにはあった。


次の日、友人のロジャー・テハスという美術商を連れてきた。
コテージを一回りしただけで、ロジャーは驚愕の声を上げた。
「こんな狂った奴は見たことがないぜ!」

コテージの外壁にはパラゴンが埋め込まれていたのだ。午前中いっぱいかかって数えたら、664台もあった。

「お前、よく平気だったな」
「あ?何だって?」
ぼくの難聴は一週間ほど続いた。

老婆は姿を消してしまい、どこに行ったのかも分からなかった。
夕方になって、砂漠につけられた何者かの足跡が見つかった。が、次の日の砂嵐のあとに、その痕跡も消えてしまっていた。

ロジャーは持ち主の分からぬパラゴンを引き取って、嬉々として帰っていった。トラックで何往復したか、ぼくは知らない。
でも、これは内緒だけど、ぼくの懐にも、同じように拾得物がある。

それは一枚の古いブルースのレコードだった。
漆黒のドレスを着て、輝く瞳でぼくを見つめるジャケットの美しい女性を、ぼくはどこかで見たことがあった。いや、正しく言えば、ジャケットの彼女と、同じ気品を持つ女性を知っていた、ということだ。
歌手の名前も、その消息も興味がない。
しかもそのレコードを、それからぼくは一度もターンテープルに乗せたことはない。

だけどその歌声は、恐らく永遠に、ぼくを魅了し続けるのだろう。
月のない、星明りの晩は、ぼくは決まって、砂丘を散歩することにしている。



                                             (おわり)



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# by krauss | 2007-01-02 01:21 | 日記

らんちうハープ

ある日の朝、ごはんを食べようと居間に行ったら、父の頭が金魚になっていた。

顔は鮮やかな朱色で、ところどころ白黒の線、額には金色の水玉模様が入っていた。なだらかな起伏のある肌に、まん丸のまばたきしない目玉が飛び出している。父の茶碗には山盛りの金魚のエサが入っていて、口をパクパクとさせながら、生臭い息を吐いて、金魚父はそれを旨そうに食べていた。いつもはにぎやかな食卓も、その日ばかりは静まり返っていて、エサを食べるクチャクチャという音がやけに響いていた。
「どうして!?」
と私が叫ぶと、
「らんちう祭に迷い込んだんだよ」
と祖母が言った。
でも私は、そんなことは言われなくても分かっていた。頭が金魚になっているのだから、らんちうにだまされて、らんちうの祭りに誘い込まれたに決まってる。

私は、いつも学校で言われている、金魚の後をついていってはいけない、という先生の言葉を思い出していた。そうやってらんちうは、道ゆく人を、らんちう祭に誘い込むのだ。そうなったら、簡単にはこっちの世界には戻ってこられないのだ。らんちう祭を抜け出すには、らんちう屋台で、何かものを買わなければならないのだ。なんでもいい。でも、もし何も買わずに無理してこちらに戻ってくると、恐ろしい呪いにかかってしまうのだ。
「お金、持ってなかったみたい。財布、カラだったわ」
母は悲しみを隠すようにして言った。何だかみんな、伏目がちだった。

「もう、お父さんの馬鹿!」
クチャ…。
金魚頭の父は口を止めた。
だがそれは、エサを飲み込むためであって、私の言葉に反応したのではなかった。何事もなかったかのように、父は再び、茶碗のエサをほおばった。
母も祖母も、兄も姉も、やめなさい、とでも言うように、私のことをじっと見つめた。
私は何だかとってもやりきれなくなって、さっさと学校に行った。自分の父親の頭が金魚になってしまったことなんか、とっても恥ずかしくって、誰かがそのことを知っているのじゃないかと、私はビクビクしながら一日を終えた。

家に帰ってみると、居間のソファーで、金魚の頭が寝そべっていた。寝そべってくつろいでいるその格好は、私の覚えている父の姿そのものであったけれど、やっぱり私には声をかける気になんかなれずにいた。
黙って2階の部屋に登ってくと、私の机の上に、小さな包み紙の箱が置いてあった。

それは私が前から欲しかったハーモニカだった。
私はそれを、前からずっと、父にねだりつづけていたのだった。
「これ…」
そこで私は、初めて今朝の家族の様子がいつもと違う理由がわかったのだ。
父は、私のためにこのハーモニカを買ってくれて、だからお金がなくなって、らんちう祭りで何も買うことができなかったのだ。

「お父さん…」

私は、ハーモニカを握り締めて、涙を流していた。
私はなんてひどいことを言ってしまったのだろう。お父さんに謝りたい。お父さんに謝らなくては、と思って階段を下りたけれど、さっきと変わらずテレビを観てくつろいでいる父に、何も声をかけることはできず、私はたまらず家を飛び出してめちゃくちゃに走り出した。とにかく、がむしゃらに走らなくては気がすまなかったのだ。
気がついてみればもう夕方で、西の空は見事な夕焼けが広がっていた。
ポケットにはハーモニカが入っていた。取り出して、ピカピカの銀色の表面を撫でた。それから夕陽に向かってそっと吹くと、プーと音がした。

家の近くのホームセンターで、金魚のエサを買おう。なるべく、高いのを買おう。
ひとりで歩きながら、私はそんなことを考えていた。

                                              父終




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# by krauss | 2006-12-14 16:13 | 日記

ベータ・アイのバラッド

ぼくは大好きな音楽に囲まれて死のうと思った。

自分の病気のことは承知していた。手術をすれば生きながらえるかもしれない。だが、もう充分だった。自分のことは、自分でケリをつけようと決めたのだった。
何万枚というレコードに囲まれ、家全体が巨大なオーディオシステムのような環境で、一人、一番好きな曲を聴きながら死ぬのだ。それ以上の幸せはない。
それがぼくの結論だった。

ぼくは睡眠薬を入手し、それから長い時間をかけて、自分の最期にふさわしい曲を探し始めた。薬を飲んで永遠の眠りにつく時、それはぼく自身のレクイエムになるのだ。

その曲は、ピンクフロイドの「クレージーダイアモンド」に決めた。それは、狂気に取り付かれた元メンバーに捧げられた名曲だった。哭きまくるギター、むせぶサックス、8分間に及ぶ人生を総括するようなイントロから始まり、喜びも悲しみも包み込むような展開のメロディが浮遊する。こんなにもぼくの最期にふさわしい曲を、ほかに知らなかったのだ。

その夜、ぼくはオーディオ機器のスイッチを入れ、部屋の照明を消した。ベッドに横になって、少しだけ自分の人生を回想した。楽しい人生だった。綺麗な幕引きをしようじゃないか。と自分に言い聞かせた。
薬をザラザラと口に放り込み、水で飲み下した。
しばらくして眠気がゆっくりと全身を覆ってきた。ぼくは片手にリモコンを持ち、再生ボタンを押した。

流れ星の音。そしてゆっくりと、音楽が流れ始めた。
意識が溶け出し、やがて闇が降りてきた…。

だが、どういうわけか、スピーカーから流れて来たのは、狂ったダイアモンドなどではなかった。
いや、確かにそれは、ピンクフロイドの曲だったのかもしれない。だが、ぼくの耳から頭に達する途中で、何故かほかの曲に入れ替わってしまったのである。

それは何か、ぼくに生きることを想像させるような歌だった。
今でも世界中で歌われるその歌を、どういうわけか、その時のぼくの頭が受信してしまったのかもしれない。

イマジンオーザッピーィポォローリヴンライフィンピー…

ぼくはゆっくりと目を開けた。
部屋の暗闇の中で、真空管アンプのボウッとした赤い光が、陽炎のように浮かんでいた。
この曲が流れているうちに、病院に電話をしよう。
心の片隅で、そんなことを考えていた。

今日だけは何を聞いても、多分この曲に聞こえてしまうだろう。


                                              おわり






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# by krauss | 2006-12-08 17:36 | 日記
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