創作日記


by krauss

星空オーバードライヴ

俺はその夜、Kのアパートに向かって車を走らせていた。Kが電話をしてきて、これから来て欲しいと言ったのだった。「リイムとのことに決着をつけたい」とKは繰り返した。俺は無言で受話器を置いた。
今では誰もがKの元を去り、去った者は俺に、早く縁を切れと忠告した。そのささやきが俺を誘惑しない日はなかったけれども、俺は何故かKを見捨てることができなかった。それはきっと奴が、ゴッホの夜空みたいな男だったからに違いない。Kの文才は天の才であったし、それゆえにKは、誰も見たことのない世界に足を踏み入れたのだと思う。そうしたあやうい世界を、俺は一目見たいと強烈に願い続けていたのだった。
リイムのことを口走る時、Kはいつも酩酊の果てか、ドラッグの真っ只中にいた。霧の世界で出会ったという、このリイムという女に、Kは心の奥底まで魅了されていた。「いいかい。リイムの特徴はね、まず下駄をはいているところだ。これは、これだけは外せない。リイムは黒か赤の服しかもっていない。リイムが黒い服を着ていれば、機嫌が悪い証拠だ。例えばぼくの書いた小説が面白くなかった時だよ。リイムはイヤというほどぼくをひっぱたく。これが、涙が出るほど痛いんだ。でも、赤い服を着たリイムは恐ろしい。その笑みは、ぼくの心を食べつくすほど美しいからね」とKは言った。「下駄は、必ず一本歯だよ。カラン、コロンという音が、彼女の来た合図でね。もしそれ以外の音がしても、それはリイムじゃない。もっと下級なやつらさ。ぼくは、彼女に会うために薬や酒をやるんじゃないのさ。下駄の音が空から降ってくるから、あわてて呑む、というわけなんだよ」近頃はKはと言えば、いつもリイムのことばかりを口にした。つまりは常日頃から、アルコール禍とドラッグ禍が、Kの頭を侵していたことになる。幻覚は本人にとってはリアルだ。俺はKの語り口に、そう思わずにはいられなかった。

Kの安アパートの前に車を停めて、ちりばめた星空を眺めながら、俺はKの部屋へと続く、錆びた階段をカンカンと登った。満天の星空に、いつか聞いた話を思い出した。Kは子供の頃に、三連の流れ星を見たのだという。いや、思えばその頃から、Kには妄想癖があったのかもしれない。だがそれからKが創作を始めたのは事実だ。幻覚や妄想が、精神に与える影響を俺は知らない。だが時にそれは、人格さえ形成しうるものなのだろう。俺は首を振ってKの部屋に向かった。
「やあ」と出迎えるKはいつものように目の焦点が泳いでいた。だが、酔っているようにも見えなかった。ダウナー系かとも思ったが、世の中を悲観する言葉も言動もなかった。「よく来てくれたね」と懐かしい友を見るような目つきで俺を見ている。「リイムとのことに、決着をつけることにしたんだ」とKはまた繰り返した。
俺はパタン、と後ろ手でドアを閉め、そのまま部屋に上がらず、玄関からKを見下ろした。「それはつまり」俺は慎重に言葉を選んだ。「薬やめるってことか」「あ…」ぽかんとした顔つきのKが、俺の言葉の意味を理解したのか、二、三度首を縦に振って笑顔を見せた。「そう。そういうのはもう、やめにするんだ…。もう」
俺は一瞬、これでまたKが正常に戻れるのではないかと思った。だが、高速回転を始めた巨大な車輪は、わずかな力では止めることはできない。あちら側を覗いてしまったKは、その車輪の端に立っていて、そこは俺の言葉など、まともに届く場所ではなかったのだ。
「もう、リイムを待つようなことはしない。ぼくは、リイムの住む世界に行くんだ」
と、Kは言った。笑っていた。白い歯がこぼれていた。無垢な顔に見えなくもなかった。
狭いアパートの部屋に突如として雲の固まりが現れて、ゆっくりと晴れていくと、中にまばゆく輝く黄金宮が浮かんでいる。
ああ、Kは多分、そうしたものを見ていたのだと思う。
俺の脳裏には、机にかじりつくようにして、鬼気迫る顔のKが、渾身の力で筆を握っている場面が浮かんでいた。Kはいつもそういう風にして原稿を書いていた。そのKを俺は、子供がプロ野球選手を見るような尊敬の眼差しで見たものだ。今ではもう、そんなKはいない。旅立ってしまったのだ。その道はおそらく、後戻りのできない一本道だったのだろう。
「お…おまえ」「今日君に来てもらったのはほかでもない…」
Kの目に一瞬、理性の光が灯ったように見えた。それは、宿った狂気かもしれなかった。突然、俺に背を向けたKは、机の中をごそごそと引っ掻き回した。溺れかけた病人のように、俺には見えた。あちこちに散らばったメモやノートの切れ端を、Kは一心不乱にかき集めた。しばらくして俺を振り帰ったKの顔には、やけに晴々しいものが漂っていた。
「君には世話になったねえ。最後まで、ぼくの友達でいてくれた。だから、どうか。これを受け取って欲しいんだ」わずかに震える手で、Kは俺に、紙の束を差し出した。大量の紙切れとともに、几帳面に折りたたまれた原稿用紙があった。「今夜、書き上げたばかりなんだ」とKは言った。「構想や、設定まで、これで全部そろっているはずだ」「なんだって」「君の、好きにしてくれ。捨てちまってもいいんだけど、できれば一度くらい、目を通してくれると嬉しいな」「…なぜ、こんなものを」「今夜ぼくはリイムの住む世界に行く。すると多分、ぼくという存在は最初からなかったことになるに違いない。でもせめてその原稿だけは、この世にぼくがいたという証にしてほしいのさ」俺は怒鳴ることも失望することも忘れ、ただ無言で、突き出された紙束を見つめていた。
「リイムなんて幻だ」「いや、そうじゃないよ。あのね、多分君だって、リイムに気がつくに違いないんだ。ああそうだ。もう、会っているかもしれない。あのカラン、コロンという下駄の音、聞いたことないのかい」「ない」「リイムにひっぱたかれるよ。涙が出るほど、痛いんだ」
俺の脳裏には、いつもの忠告が浮かんできた。なあ、廃人に芸術が創れるっていうのかい、という、お決まりのアレだ。俺は靴のまま部屋に上がりこむと、そのままKの横っ面をひっぱたいた。情けない声をあげてKは吹っ飛んだ。うぐうと声をあげ、だが奴は、その部屋の片隅から、俺を見上げたまま笑い続けていた。「何だい、あのリイムに比べれば、こんなもの、撫でられるようなものさ。ところで今日の君は、黒い服を着ているね。きっと不機嫌なんだろうね。アハ」「違う。お前に、目覚めてもらいたいだけだ」俺は振り上げた手を、力なく下げた。Kはまた、アハ、と高い声をたてた。まるで俺の張り手など、ちっとも効いていないようだった。「目覚めたんだよ、だからぼくは、リイムの世界に行けるんじゃないか」カッとなるよりも、やはりそこで力が抜けた。不思議なことに、力はどこまでも抜け続けて、俺は立っていられなくなった。そして、とうとうKの脇に倒れこんだ。Kの笑い声が壊れた人形のように響いた。ユラリと、Kの手が動いて、それが何本にも見えて、その手がすべて濃い緑色のラベルのビンを掴み、1つしかないはずのKの口に、ドバドバと中身を注いだ。「お前、それは…。そんなに飲んだら…」何故か力が抜けたまま、手足をもがくことさえできなかった。キラリとKの瞳が輝き、その頬がにわかに紅潮した。「そうじゃない。ほら、来たんだよ。君」驚くほどシャキッとした口調だった。「リイムが来た。お別れの時間が来た」「お前、ヤク…、早く、医者を…」

まさにその時だった。アパートの外から、あのカンカンという階段をのぼる音が聞こえたのは。マシーンのような正確なリズムが、いつまでも続いている。やがてそれは廊下に達し、ゆっくりと、そしてカラン、そしてコロンとという音をたて、次第にこちらに近づいてくるのだった。「リイムさ。迎えにきたんだ」「まさか…」だが、声にならなかった。俺の意識は朦朧としていた。魂が抜け出るような感覚だった。それはKの、転生の証であり、影響なのかもしれなかった。巨大な船がたてる波にあおられて、転覆寸前のボートになっている俺。カチャリ…、とドアが開いた。カラン…コロン…。俺の背中を冷たいものが走った。視界の端に、真っ白な腕が見えた。白く透き通るような肌。それがゆっくりと俺の顔を撫でた。氷のような冷たい手だった。それが一瞬消えたかと思うと、突然、バチン!という衝撃が俺の頬に走った。目から星が飛び出た。Kの、アハ、という甲高い声が聞こえたような気がした。チラリと、黒い袖が見えた。もちろん、Kのものではなかった。ジンジンと、痛みが脳髄で暴れた。俺の意識は、まだらになり、やがて闇に落ちていった。それは夜空のようにくらい闇だった。どこを見ても、流れ星の1つも見えなかった。

そして俺が気がついてみると、窓から差し込む月の光が、モノクロームの俺の身体を照らしているのだった。覚醒とともに、ズキンという頬の痛みが電撃のように走った。手で触っただけで、そこが腫れていることが分かる。そして更なる痛み。もう片方の手には、Kの原稿が残されていた。部屋はガランとしていた。それどころか、何ひとつとして、残されてはいなかった。持ち出されたのとは違う。そもそも人が住んでいた痕跡が、微塵もなかった。
こうしてKが生まれ、生きた事実は、この世からきれいさっぱり消えてしまったのだった。そもそも奴は、俺の妄想でしかないと言われても、俺はまったく反論できず、しかもそのことで、俺はそれから一ヶ月のあいだ、薬物性幻覚かつ発作的自傷症と診断され、入院生活を送るはめになった。
俺はその後、Kの原稿をもとに作品を書き上げた。盗作でなく、換骨奪胎としておこう。それは、俺の代表作となった。手元には莫大な金が入った。もちろん、俺を訴える奴などいなかった。俺を糾弾する人間がいるとすれば、それは、黒い服を着た、白い手の持ち主だけなのかもしれない。Kは、俺の分裂した自我で、あれは俺の書いた作品だったのか?まさか。俺は、リイムという女を心のどこかで求めているのか?違う……いや。
分からなかった。本当のことを言えば、赤い服の女が好きだし、しかもあんな痛みはもうごめんだった。だが、もう一度張り手を食らわなければ、俺はこの、現実という名の夢から、一生覚めることができない気がするのだった。

あれから車に乗るのをやめた。三連の彗星を見るか、天から降ってくるというカランコロンという音を聞くためには、いつも星空を見上げていなければならないからだ。

もう一度言うと、俺は赤い服の女の方がいいんだけれども。


                                           (おわり)




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by krauss | 2006-08-08 17:21 | 日記