腰ほどまでの草が密生する丘の中腹を、女はひとり歩いていた。黒い兜と胸冑をまとい、一本の剣で時おりあたりを薙ぎ、緩やかな起伏を登っていく。青い空に、真っ白な雲がゆっくりと流れていき、その光景があまりに穏やかに目に映り、女は時おり、立ち止まって大きく息を吸った。幸福な気持ちが、肺を満たしていく。
女は登りながら、兜を脱ぎ捨てた。黄金色の長髪がこぼれ、太陽に照らされて輝いた。足元にドサと落ちた兜は、一度二度と転がっていき、やがて草むらの中に消えた。髪を風になびかせながら、女はその様子を見つめていた。遠くで鳥がさえずっている。再び歩き出し、次に胸に手を這わせると、甲冑を外しにかかった。
「もう、必要ない」
女はそうひとりごちた。幾度となく彼女の危機を救ってきた甲冑だった。
…だが、この世界には無用の長物に違いない。
胸の甲殻と腹部の胴板を躊躇なく外し、捨てた後を、今度は振り返らなかった。上半身は黒鉄色のかたびらだけとなり、その下の汗ばんだシャツとチュニックが透けて見えた。
女はじっと、握り締めた剣を見つめる。では、これも要らないのか…。
いったいどれほどの血を吸って来たのだろう。薄緑色の刃は、微塵も鋭さを失っていない。
迷いを振り払うように、女はまた、草むらを掃った。鋭角に切り取られた細かい草葉が風に散った。万緑の丘を、女は無言で登り続けていった。
やがて女は一本の細い道へと至り、それは次第に幅広となり、人道となった。草の背は次第に低くなっていき、地肌には岩が現れ、根の張った潅木が、幹をくねらせながら緑の葉を揺らしていた。
女はまた、ふと足を止めた。目の前の景色には、どこか見覚えがあったからである。
足を止めると、聞こえるのは風の音だけだった。
…そう。間違いなく、この道を歩いた。
どんよりとした雲の下、仲間と見上げたあの鉛色の暗い空を、女は思い出していた。誰もが疲れきっていた。誰もが、死を覚悟していた。
彼女は眉間に皺を寄せ、無意識に握る剣には力がこもっていた。だけど、もうすぐに違いない。今や、あの雲は消え、青い空はどこまでも続いている。
太陽の光は、女の肌をちくちくと刺し、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
そしてくねる道を一心に往くと、やがてその先に、小さな屋根が見えてきた。ざあっと一陣、強風が彼女を襲い、埃が宙に舞った。目を閉じて、仲間との再会にはやる心を押さえ込んだ。
…生きていたら…再び会おう…この場所で…
風は去り、彼女はゆっくりと足を踏み出す。そして小屋の全景が視界に広がり、彼女は、青い目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
そこに、小屋はなかった。
そこには、風雪にさらされ、大きく傾き、屋根は抜け、梁は腐って散乱した、朽ちた廃屋があるばかりだった。
彼女は取り落としそうになる剣をしっかりと握った。
足元の小石がザッと音を立てた。穏やかな風とは対照的に、鼓動は早くなるばかりだった。
「何…これは…」
朽ちた小屋を見て、女は呆然と呟いた。
あそこで、私たちは、葡萄酒を酌み交わしたのだ。
だが。そう。それは、わずか昨日前の出来事ではなかったのか。
十年?二十年?いや、もっとかもしれない…。ありえないほどの時間のずれが生じている。
「飛ばされたのだ…」
だが、これほどまでに時の相転移が起こるとは。
彼女は確かめるように、廃屋に近づいていった。確かに、ここにちがいなかった。晴れ渡るこの青空の底に、灰色に立ち込める不吉な雲の模様があるのではないかといぶかしんだ。一瞬、捨ててきた兜と甲冑のことを思った。かたびらはジラジラと無遠慮な音を立てた。
小屋の中は影で満ちている。
その時、微かな、気配を感じて、緊張が彼女の全身を駆け抜けた。女は両手で剣を握り締めた。
「誰だ!」
素晴らしい跳躍力で小屋の中に突進すると、女は剣の切っ先を影の中にきらめかせた。
滑らかな曲線が暗闇に残像を残した。
だが、崩れかけた影の中には誰もいなかった。女は慣れない薄闇の中を、油断なく見回した。やはり、誰もいなかった。それを確認すると、彼女は力を抜いて、じっと天井を眺めた。
抜けた屋根の間から、光が漏れている。
それはあの日見上げた夜空に鈍く光る、月の朧を思わせた。彼女は仲間の事を思った。仲間たちと交わした杯を思った。数日前のことだ。彼女の意識の中では。だが、その名残はどこにもない。はるかな過去の出来事でしかないのかもしれない。
小屋の暗闇は、たちまち彼女を冷たい空気で取り囲んだ。
チリン…
どこかで音がした。
小屋の奥には窓枠があって、その向こうに先ほど見かけた草原が見える。
ちょうど、暗闇に浮かぶ額縁のように、黒の中に切り取られた外の景色が、ゆったりと広がっている。目が慣れてくると、草の緑と空の青が、鮮やかに彼女に主張した。
チリン…
風が草原を揺らすたびに、音は聞こえてくる。
彼女は目を細めた。
「まさか…」
冷たいものが、背中を走った。
震えるような足取りで、小屋を抜け、裏手に回った。
草原の中に、何かが見えた。足元もろくに見ずに、女は草むらをかき分けた。
二歩、三歩と近づく度に、女は首を振る。宝物をなくした子どものように。嫌な予感は、一歩ごとに確信に変わった。ついに彼女の剣はその手からこぼれ落ちた。枯れた草が、音もなく受け止めた。
そこには盛り土がしてあり、2本の剣と一本の杖が突き刺さっていた。
見誤るはずもなかった。
「嘘……」
仲間のものだった。
杖の先には金属の輪がついていて、それが風に揺られて音を立てたのだった。
仲間は確かに、ここにやってきたのである。
喜びだったのか、悲しみだったのか、分からない激情に貫かれ、女はその場で膝を落とした。涙は、出なかった。口が大きく開いたが、嗚咽も叫びも発せられることはなかった。
ゴウウゴウウと風は丈のある草を波立たせ、彼女の金色の髪を乱れ流していく。
女はふりむいて廃屋を見た。その背景は、相変わらず、青い空だった。
この平和な世界は、最初からここにあったかのように存在している。
もう一度向き直り、彼女はじっと、仲間の残した痕跡を見つめた。
あの時、それ以上のことを望む者は、一人もいなかったはずだ。
一人一人の顔を、彼女は深々と思った。その声を、その性格を。交わした言葉を。交えた剣を。
ゆらりと立ち上がって、2本の剣と、一本の杖を、女はいとおしそうに撫でた。杖は黒ずみ、2本の剣は腐食が進んで久しかった。いずれもかつては、聖剣と称されたものである。
つうと、一筋だけ、涙が頬を伝った。
彼らは、いつここに来たのだろう。一年前?十年前?それとも…。
次々と、結論の出ない疑問が湧いては消えた。
だが、とにかく、彼女とその仲間は、やり遂げたことにちがいなかった。
時の相移転は、生き延びた者を、ばらばらに、あらゆる時間軸に弾き飛ばした。
もはや、再び会うこともないだろう。
…だが、それだけのことなのだ。
「私は…」
どうすればいいのだろう。
彼女は思った。
長きにわたってその手に馴染んだ緑色の剣が、ぼうっと輝いた気がした。
恐らく、今何かが終わったのだ。
「少なくとも4人は生き延びた。そしてまだ、この世界のどこかに生きているのかもしれない」
晴れやかな顔が、天の頂を見上げた。
朽ちた小屋の裏手に今、3本の剣と、1本の杖が突きたてられている。
1本の剣は緑色の刃を持ち、その真下には、折りたたまれた黒鉄色のかたびらが置かれていた。
「そして、何かがはじまるだろう」
そんな言葉を残し、ひとり女の背中は丘を越え、やがて、見えなくなった。
end _less
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女は登りながら、兜を脱ぎ捨てた。黄金色の長髪がこぼれ、太陽に照らされて輝いた。足元にドサと落ちた兜は、一度二度と転がっていき、やがて草むらの中に消えた。髪を風になびかせながら、女はその様子を見つめていた。遠くで鳥がさえずっている。再び歩き出し、次に胸に手を這わせると、甲冑を外しにかかった。
「もう、必要ない」
女はそうひとりごちた。幾度となく彼女の危機を救ってきた甲冑だった。
…だが、この世界には無用の長物に違いない。
胸の甲殻と腹部の胴板を躊躇なく外し、捨てた後を、今度は振り返らなかった。上半身は黒鉄色のかたびらだけとなり、その下の汗ばんだシャツとチュニックが透けて見えた。
女はじっと、握り締めた剣を見つめる。では、これも要らないのか…。
いったいどれほどの血を吸って来たのだろう。薄緑色の刃は、微塵も鋭さを失っていない。
迷いを振り払うように、女はまた、草むらを掃った。鋭角に切り取られた細かい草葉が風に散った。万緑の丘を、女は無言で登り続けていった。
やがて女は一本の細い道へと至り、それは次第に幅広となり、人道となった。草の背は次第に低くなっていき、地肌には岩が現れ、根の張った潅木が、幹をくねらせながら緑の葉を揺らしていた。
女はまた、ふと足を止めた。目の前の景色には、どこか見覚えがあったからである。
足を止めると、聞こえるのは風の音だけだった。
…そう。間違いなく、この道を歩いた。
どんよりとした雲の下、仲間と見上げたあの鉛色の暗い空を、女は思い出していた。誰もが疲れきっていた。誰もが、死を覚悟していた。
彼女は眉間に皺を寄せ、無意識に握る剣には力がこもっていた。だけど、もうすぐに違いない。今や、あの雲は消え、青い空はどこまでも続いている。
太陽の光は、女の肌をちくちくと刺し、額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
そしてくねる道を一心に往くと、やがてその先に、小さな屋根が見えてきた。ざあっと一陣、強風が彼女を襲い、埃が宙に舞った。目を閉じて、仲間との再会にはやる心を押さえ込んだ。
…生きていたら…再び会おう…この場所で…
風は去り、彼女はゆっくりと足を踏み出す。そして小屋の全景が視界に広がり、彼女は、青い目を見開き、驚愕の表情を浮かべた。
そこに、小屋はなかった。
そこには、風雪にさらされ、大きく傾き、屋根は抜け、梁は腐って散乱した、朽ちた廃屋があるばかりだった。
彼女は取り落としそうになる剣をしっかりと握った。
足元の小石がザッと音を立てた。穏やかな風とは対照的に、鼓動は早くなるばかりだった。
「何…これは…」
朽ちた小屋を見て、女は呆然と呟いた。
あそこで、私たちは、葡萄酒を酌み交わしたのだ。
だが。そう。それは、わずか昨日前の出来事ではなかったのか。
十年?二十年?いや、もっとかもしれない…。ありえないほどの時間のずれが生じている。
「飛ばされたのだ…」
だが、これほどまでに時の相転移が起こるとは。
彼女は確かめるように、廃屋に近づいていった。確かに、ここにちがいなかった。晴れ渡るこの青空の底に、灰色に立ち込める不吉な雲の模様があるのではないかといぶかしんだ。一瞬、捨ててきた兜と甲冑のことを思った。かたびらはジラジラと無遠慮な音を立てた。
小屋の中は影で満ちている。
その時、微かな、気配を感じて、緊張が彼女の全身を駆け抜けた。女は両手で剣を握り締めた。
「誰だ!」
素晴らしい跳躍力で小屋の中に突進すると、女は剣の切っ先を影の中にきらめかせた。
滑らかな曲線が暗闇に残像を残した。
だが、崩れかけた影の中には誰もいなかった。女は慣れない薄闇の中を、油断なく見回した。やはり、誰もいなかった。それを確認すると、彼女は力を抜いて、じっと天井を眺めた。
抜けた屋根の間から、光が漏れている。
それはあの日見上げた夜空に鈍く光る、月の朧を思わせた。彼女は仲間の事を思った。仲間たちと交わした杯を思った。数日前のことだ。彼女の意識の中では。だが、その名残はどこにもない。はるかな過去の出来事でしかないのかもしれない。
小屋の暗闇は、たちまち彼女を冷たい空気で取り囲んだ。
チリン…
どこかで音がした。
小屋の奥には窓枠があって、その向こうに先ほど見かけた草原が見える。
ちょうど、暗闇に浮かぶ額縁のように、黒の中に切り取られた外の景色が、ゆったりと広がっている。目が慣れてくると、草の緑と空の青が、鮮やかに彼女に主張した。
チリン…
風が草原を揺らすたびに、音は聞こえてくる。
彼女は目を細めた。
「まさか…」
冷たいものが、背中を走った。
震えるような足取りで、小屋を抜け、裏手に回った。
草原の中に、何かが見えた。足元もろくに見ずに、女は草むらをかき分けた。
二歩、三歩と近づく度に、女は首を振る。宝物をなくした子どものように。嫌な予感は、一歩ごとに確信に変わった。ついに彼女の剣はその手からこぼれ落ちた。枯れた草が、音もなく受け止めた。
そこには盛り土がしてあり、2本の剣と一本の杖が突き刺さっていた。
見誤るはずもなかった。
「嘘……」
仲間のものだった。
杖の先には金属の輪がついていて、それが風に揺られて音を立てたのだった。
仲間は確かに、ここにやってきたのである。
喜びだったのか、悲しみだったのか、分からない激情に貫かれ、女はその場で膝を落とした。涙は、出なかった。口が大きく開いたが、嗚咽も叫びも発せられることはなかった。
ゴウウゴウウと風は丈のある草を波立たせ、彼女の金色の髪を乱れ流していく。
女はふりむいて廃屋を見た。その背景は、相変わらず、青い空だった。
この平和な世界は、最初からここにあったかのように存在している。
もう一度向き直り、彼女はじっと、仲間の残した痕跡を見つめた。
あの時、それ以上のことを望む者は、一人もいなかったはずだ。
一人一人の顔を、彼女は深々と思った。その声を、その性格を。交わした言葉を。交えた剣を。
ゆらりと立ち上がって、2本の剣と、一本の杖を、女はいとおしそうに撫でた。杖は黒ずみ、2本の剣は腐食が進んで久しかった。いずれもかつては、聖剣と称されたものである。
つうと、一筋だけ、涙が頬を伝った。
彼らは、いつここに来たのだろう。一年前?十年前?それとも…。
次々と、結論の出ない疑問が湧いては消えた。
だが、とにかく、彼女とその仲間は、やり遂げたことにちがいなかった。
時の相移転は、生き延びた者を、ばらばらに、あらゆる時間軸に弾き飛ばした。
もはや、再び会うこともないだろう。
…だが、それだけのことなのだ。
「私は…」
どうすればいいのだろう。
彼女は思った。
長きにわたってその手に馴染んだ緑色の剣が、ぼうっと輝いた気がした。
恐らく、今何かが終わったのだ。
「少なくとも4人は生き延びた。そしてまだ、この世界のどこかに生きているのかもしれない」
晴れやかな顔が、天の頂を見上げた。
朽ちた小屋の裏手に今、3本の剣と、1本の杖が突きたてられている。
1本の剣は緑色の刃を持ち、その真下には、折りたたまれた黒鉄色のかたびらが置かれていた。
「そして、何かがはじまるだろう」
そんな言葉を残し、ひとり女の背中は丘を越え、やがて、見えなくなった。
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by krauss
| 2006-11-17 17:15
| 魔道